本研究では、20世紀初めから1945年に至るまで、日本が中国東北部に対した持続的かつ大規模な投資したことを考察した。その結果、「満洲国」の第1次「産業開発5ヵ年計画」が発足された1937年を境として中国東北部の経済構造は伝統的な農業経済から近代的な鉱工業経済に転換したことを明らかにした。 また、本研究では、このような経済構造の変化に伴う中国東北部の人口が飛躍的に増加していたこと、「産業立地計画」を主眼とする「満洲国」四大都市の異なる「都市計画」の立案、そして人口の増加が「満洲国」四大都市の都市計画に与えた影響を分析した。その結果、「満洲国」における都市計画は当時、世界の最先端ともいえると計画であったこと、そして産業発達に伴う都市人口の増加が著しく、その高い移動性、季節性、半工半農などの特徴が有した増加人口が都市計画に大きな影響を与えたことを確認した。 最後に、本研究では、1932年の「満洲国」成立の前後の中国東北部における農業経済に土着した官僚資本や一般商業資本と外国資本との対立および結合について分析を行なった。そして、1932年以前には、一般商業資本および官僚資本と外国資本とが対立したが、それは都市構造上に反映すると、大都市内における外国資本により経営された鉄道附属地、一般商業資本と官僚資本とが密着して拠点とする旧城内、一般商業資本および官僚資本が外国資本に対抗するための商埠地、の3つ市街地が並存するという都市構造上の差異として現れた。また、1932年以降には、官僚資本と外国資本とが結合し、大都市には産業の発展に伴い3タイプの市街が融合し、統一的な都市計画が策定されることが可能となった。しかし、外国資本は中小都市と農村地域には浸透できず、中小都市とその背後に広がる広大な農村地域は、依然として一般商業資本と官僚資本が支配していて、半封建の農業経済を中心とした経済構造であった。そのため、大都市と中小都市、大都市と農村地域との関係が遊離するといった現象が発生したことを明らかにした。